やる気が起きない、力がないと感じたことはありますか?自分の肩が重いと感じたことはありますか?ダビデ王もそのように感じました。

やる気が起きない、自分が弱っていると感じるのは誰にでも起こりうることです。それが問題ではありません。問題なのは、やる気のなさと力のなさが常にあなたの日常に存在していてもうそれが普通に思えてくることです。常に、やる気がなく、力がないと感じてしまうのです。もちろん、やる気が出る時もあるけれど、基本的には落ち込んでしまっています。その裏には何があるのでしょう?

数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み… 詩編 40.12

この詩編を書いたダビデ王は、悪に取り囲まれていることをよく知っていました。何年も追い求められていたからです。洞窟に隠れて生きていました。だからこそ、この言葉は悪に取り囲まれることをよく知っていた者の言葉でした。もしかしたら、あなたは問題に取り囲まれてしまい、どうすればよいのかも分からずに、たくさんの質問や心配が生まれてしまい、落ち込んでしまっているのかもしれません。

しかし、もう一つのことが起こることもあります。そこから強い者が生まれることもできます。その問題に立ち向かい、乗り越えることができます。そのような挑戦的な問題がある時は、自分も気づくことができていなかった力を見つけることができます。つまり、そのことを経験していなかったら、高い門を乗り越えることはできなかったはずです。しかし、生き残るために力を求めることによって、知らなかった能力を見つけることができます。あなたの中に眠っているその巨人を起き上がらせることができ、全ての悪を乗り越えることができます。ダビデも自分の人生で何度もそうしました。

 

私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。詩篇 40.12

よく考えてみてください。ダビデはどんな敵がいても落ち込むませんでした。しかし彼の咎(罪)によって彼が縛られてしまい、上(神様)を見ることができなくなってしまっていました。

だから、多くの人が悩んでいるやる気のなさに裏には(その中でも、お風呂に入ることも、ベッドから起き上がることもできない人もいます)何かに対する罪悪感があるのかもしれません。記憶にある何かのせいで、自分を許すことができずに、生きているけれども自分の心は死んでいる状態になってしまいます。

それでは、そのための出口は何でしょう?どうやってダビデ王はそこから抜け出すことができたのか?詩編51にその答えを見つけることができます。彼が神様に心を開き、謙虚になり、自分の罪を告白し、赦しを求め、自分の罪を認め、神様に憐れみを求めるために、神様の足元にひれ伏した時です。誰も神様の赦しを受けるためにふさわしくないから彼はふさわしかったから信じたのではなく、神様が必要だったから信じたのです。その時、神様は彼を赦し、全ての罪悪感から自由になることができました。そこで、上(神様)を見ることができるようになり、顔を上げて、神様に感謝をし、失ったものを取り戻すことができました。

神様も同じ事をあなたの人生に行いたいのです。上を見ることもできないほどに悪いことをしてしまい、祈ることもできないのであれば、下を見たままでいいから神様に赦しを求めてください。自分がしたことを悔い改め、私たちが罪を告白すれば、神様は私たちを赦してくださる(ヨハネの第一の手紙 1.9)という約束を信じてください。この約束を自分の人生に生かしてください。

罪悪感から自由になり、肩の重荷がなくなってから、また力が戻ることに気づくことができるはずです。

 

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