Mês: dezembro 2021

畏れのつぼ

「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた...」 マタイによる福音書25:1-4 最近、この1節について瞑想していました。思慮が浅いおとめたちは、まさに思慮深いおとめたちと同じようでした。花嫁であり、おとめであり、手にはあかりがありました。だけど違いは、あかりと一緒に、つぼの中に油を用意していたかどうかでした。 そうであるならば、このつぼが畏れということではないですか? すでにすべてが解決されたと思い込みながら、思慮が浅いおとめは落ち着いていました。花婿が迎えに来るまえに、油はなくならないから、つぼの中に油を入れて持って来る犠牲をしてまで、一緒に用意する必要はないと思い込んでいました。 興味深いことに、思慮が浅いおとめは、準備不足になっていると気がつく代わりに、つぼを持って来るという犠牲をした、思慮深いおとめまで来て頼んでいました。おそらく思慮深いおとめの大げさが過ぎていると、思っていたのでしょう! とても強く思ったところは、神様のしもべである、わたしたち全員もこれと同じだというところです。見かけ上は全員同じで、花婿を待ち望んでいます。けれども、ある人はすでに畏れを失いました。犠牲を行う人生についての指導を受けたとき、不必要なことだと思い込みます。結局のところ、すでに「花嫁」だからです! しもべが悪く、怠慢なとき、全員そのしもべがだれであるかを見ます。それが目に見えてわかるからです!どんなに思慮が浅い人は、人の目から見過ごされるとしても、ちょうど思慮が浅い人自身だけが、花嫁が戻って来る前に自分を調べて、悔い改めることができます。

花嫁の聖歌

「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。」(詩篇130:5-6) これが主イエス様の花嫁の聖歌です!花嫁は毎日待ち望みます。なぜなら。祭壇で彼と一緒に誓いをしたように、彼の御国まで連れていくために、彼が天の雲に乗って来るのを知っているからです。

陽性検査をしましたか?

オミクロン株がヨーロッパで発生したあとで、すでに新型コロナウイルスの検査施設では、行列で夜が明けます。人々は寝るまえは元気ですが、突然、いくつかの症状が現れながら起きます。もしくは、すべてが上手くいっていますが、今の時刻から別の時刻になるまでの間で、身近な人が陽性の検査結果という知らせが現れます。 そこであなたも感染しているという、心配すべき可能性が来ます。検査を探そうとすることも大きくなります。なぜならば多くの場所で、陰性の結果を見せる大前提があるからです。 世界的なパンデミックの2年間で、全員不安定となりました。すごい苦境の中で、平和、勇気、喜びがあったのは、神様を強いお城とした人だけです。 とてもたくさん束縛、惨めさ、死、飢餓、うつ病、自殺、後遺症、不正、政治的失望... でも見てきたこと、過ごしたことは、わたしたちが壊れやすくて、制限せれていているから、救い主が必要だと思い出させます!1人では、人生の痛みに勝つことができません。 わたしたちと共に夜を、暮らしの中で最も暗いときを歩き、危険の真っ最中で、決して手を離さなかった、わたしたちの主が、祝福されますように。 だから、新型コロナウイルスがあっても、新型コロナウイルスがなくても、神様はすべての苦しむから守ってくれる、神様で居続けます。 あなたはすでに新型コロナウイルスにかかりましたか? 感染するという恐怖を持ちましたか? 「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。 たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。」(詩篇46:1-5)

あなたは本当はだれですか?

大勢は多くのことを話しますが、証人だけが話したことの、すべてを確定させます。 とてもたくさん美しい言葉と、奮い立たせる言葉を話すことは、もしも証人が、あなたに対して言われたことと、教えられたことを、実践することで見ないなら、なんの役に立ちますか? 家族と仕事の同僚たちは、あなたがだれであるかの証人で、あなたがだれであると言うことの、証人ではありません。 このことをしまってください。これがテストに問題として出されるからです。

神様の助言

「わたしが自分の歩んだ道を語ったとき、あなたはわたしに答えられました。あなたの定めをわたしに教えてください。あなたのさとしの道をわたしにわきまえさせてください。わたしはあなたのくすしきみわざを深く思います。わが魂は悲しみによって溶け去ります。み言葉に従って、わたしを強くしてください。」(詩篇119:26-28) 正しい人が分かっていることは、神様に問題を語ることができるということです。なぜなら神様は、正しい人の助言者だからです。答えるため、神様の定めを教えるため、正しい人が神様の御心をわきまえて、人生に応用することができるために、神様はそこに存在します。 もしある日正しい人が、苦しい日を過ごしたら、分かるようになることは、神様には信仰によって進み続けるための、力が見つかることです。

霊的な遮断

親愛なるマセド監督牧師へ、おはようございます! あなた様の伝えている「神様の形に似ている」という言葉について考えると、神様がアダムに「もしあなたが善悪を知る木の実を食べたら、死んでしまう!」と言った瞬間について、わたしの好奇心をそそります。 人間の概念では、なにかを食べたら死んでしまうのは、普通、有毒なものを摂取することに関連しています。 人間の体にとって、最も致死的な10種の毒についての、まとめを読みました。そこには各種の致死的な作用を、とてもはっきりと書いてあります。すべて同じ機能があります。体に壊滅的な遮断を引き起こします。つまり毒は血、酸素、そして人間の体の中にある機能の、すべての伝達を妨げます。すべてが止まって、死が訪れます。 しかし、神様は身体的な死に、照らし合わせていないです。でも人間と神様との間で霊的な遮断、そして人間と隣人との間での遮断としても、照らし合わせています。そのようにして、致死的な毒のように速攻でした。エバが食べたまさにその瞬間に、彼女は神様から遮断されて、間もなくしてアダムも神様から遮断されました。 アダムが実を食べてしまった動機を答えたとき、従わなかったことの赦しを願うその代わりに、彼は神様に対して、またエバに対して逆らいました。「わたしが食べたのは、主がわたしに与えて女のせいです。」と別の言葉を言いました。 このように神様の仲間で、エバの夫は死にました。なぜなら彼はエバを守ることすらも、重要とはしなかったからです。「主よ、彼女が食べてしまったのは、わたしが見張っていなかったからです。わたしは行うべきであるように、彼女の世話をしていなかったからです。」のように言うこともたぶんできたはずです。 そこで死があります!そこで人間と神様との間で、人間と隣人の間で遮断されます。今は他の死、十字架での死だけが最初に解決できます。 わたしたちの主イエス様が犠牲を通して、人間が再び神様と共に関係をもつ機会と、隣人を愛する機会を取り戻しました。なぜならわたしたちの十字架を背負うこと、わたしたち自身を捨てること、そしてわたしたちの主に従っていくことは、神様との出会いまで連れていき、神様の形に似ているということがわたしたちにまで戻ってきます。 とても強いことです! 神様があなた様を祝福しますように、そしてエステル奥様にもよろしくお願い申し上げます!