クリスチャンだと自称したとしても、教会での役割があっても
神様につかえると思い込んでもいいわけではありません。
マセド監督曰く人は皆、人や物につかえています。神様か罪にかのどちらかです。
さらには、どちらにも代償と報いがつきものです。罪の代償は死。人が罪に使えると奴隷となり、解放できなくなりますが、イエス様は聖別し、義を与えます。そして使える者には祝福を与えます。
神様の御言葉にはこう書かれています。
「イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。」ヨハネ書8章34節
ではどのようにして自分の主が誰なのかを知ればいいのでしょうか?神様につかえると言うことは牧師になったり、教会の中での役割を持つことでもありません。それは、聖別した人生を送ることです。主イエスの御心を果たすため、正しい事をするため、自分の肉と戦い、義に基づくために努力をするために自分の意志・望を犠牲にすることです。
罪に使えると言うことは全くの矛盾です。罪に使える人は神様の律法を破って生きていく、つまり不純なんです。
最後まで忠実でいるにはどうするべきなのか
同時に両方につかえるのは不可能です。神様につかえるか、悪魔につかえるか。父なる神様につかえ、ついて行くと決めた者は、最後まで進むために聖霊様を受ける重要さを理解しないといけません。
私たちにとって、嘘にまみれているこの世で聖別された人生を送るのは不可能ですが、神様から生まれた者は(信仰によって)命を与える霊となり、神様の姿と性質を得ます。たとえ全員が罪・混乱・嘘をしたとしても、神様の御霊をもっているので真実を行い続けるものです。