『その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。』イザヤ書/11章2節

聖書に出てくる知恵の霊は、大学や人生経験を通して得られるような知恵のことではありません。道徳かつ霊的な知恵のことであり、知的能力のことではありません。また、自分の財産を増やし、有名になって自分の特技と発明で世界を変えた人は多くいますが、そのほとんどが神様を無視し、関わったら時間が無駄になる存在かのように扱ってしまったため、知恵の霊に欠けている人々です。知恵が無い彼らは弱者となります。なぜなら、彼らは自分たちの創造者(神様)ではなく、自分たちの能力に頼っているからです。ですが、この世の中に潜んでいる悪が彼ら、または家族に何かした時、能力や名誉、お金は何の役にも立ちません。もし彼らに知恵の霊があれば何でも乗り越えられますが、その霊に欠けています。

ルカの福音書によると、イエス様が12歳の頃、「イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。(2章52節)」と書かれています。つまり、知恵は年齢と共に得られるものではないという事です。例えば、老人が愚かで12歳の少年が知恵に満ちていることだってあります。これは、イエス様が3日間行方をくらまし、神殿で教師たちと御言葉について話していたところを両親が見つけた直後に起きた事です。そして、イエス様が居なくなっていたことについて問いかけた時、イエス様は「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」と答えました。

自分の事ではなく、父(神様)に関わる事をする人こそが知恵に満ちていると言えます。知恵の霊は神様を待ち望みます。神様を求める過程が知恵を見つけ出す方法です。そして、知恵の霊は困難な問題の解決方法を見出し、他に誰も気づけないような扉(チャンス)を見つけ出したり、将来のため、まだ起きていなくても必ず成功するという確信のビジョンをくれます。それは、神様の知恵が御言葉の追求と誓いを信じる事に直接関係しているからです。

知恵の霊は私たちを救いへと導いてくれます。箴言19章8節では『知恵を得る者は自分の魂を愛し…』と書かれているほどです。ですので、本当の知恵は霊的な物事の大切ッさを教えてくれます。知恵があれば、自ら地獄に繋がる道を選ばず、天国に繋がる狭くて難しい方の道を選びます。私たちは、自分勝手な生き方ではなく、犠牲が伴う生き方を選びます。また、私たちは(聖書に出て来る)油が切れてしまい、結婚パーティから追い出されてしまった思慮の浅い女たちではなく、予備の油を準備した思慮深い乙女です。

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