『人々はおのおの家へ帰って行った。』ヨハネによる福音書/ 07章 53節

『イエスはオリーブ山へ行かれた。』ヨハネによる福音書/ 08章 01節

この2つの節は引き続いていて、とても意味深い事がこの2節に隠れています。

おそらく、夕暮れだったから、人々が自分達の家に帰るのは当たり前な事です。しかし、誰もやらない事を誰かはやりました。周りと全く反対の事を誰かはやりました。日が暮れていたにも関わらず、誰も行かないような場所に誰かは行きました。

神様の人はこの世に属していない為、この世からの褒め言葉やこの世の喜ばす事を期待はしません。この世が悪い事をしているなら、神様の人はその反対の事をする為の性格を持っていなければなりません。

私達は色んな物の価値や意味が歪んだ世界に生きています。しかも、この世の人々は皆、自分達が「正しい」と思う事を他の人達に伝える為に、自分達が作った旗を掲げ、デモを起こし、自分達が思っている事をシャツに書いて、着たり、周りの人が聞く為に大声で自分達が思っている事を言ったり、自分達が思っている事を何か反対の事を言えば、どれだけか弱い人でも、怒りの視線を向けます。この事は、人間全体がこの傾向にあります。

現代、周りの人と反対の事をやる勇気を持っている人は誰か?周りと違う事をやる勇気を持っている人は誰か?神様を悲しませる事を自然的に「ダメ」と言う人は誰か?周りは自分達の家に帰りますが、自分は山に登るという事をする人は誰か?誰ですか?高き者(神様)の子だけです!

誰も行かない所に行く勇気を持つ為に、誰も言う勇気がない事を言う為に、人間の力に頼らず、神様の力に頼る為に、ある人達は右に曲がったり、またある人達が左に曲がりますが、真っ直ぐに上を向きながら歩く為に…そうです、神様の考えを自分の考えとなっていて、自分は神様の性格を持っている人だけができます。

他人が自分達の家に帰っている間に、山に登る事は何か理解したこの人達は、自分達がこの世の悪い流れに沿って生きている、周りの人から批判を受けた数ほど、その人の証印となります。私達は救いを手に入れるべく、山を登っています。誰もやりたくない事を私達はやります。周りが面白味がないと思う生き方を私達はしています。快適だと思う環境から出て、住所や郵便番号がない場所へ向かって歩きます。

重要なメッセージ「私達は山(祭壇)にいます。だから、慎重に注意をしてください。周りが批判の石を高き者の子に投げた時、その石は重力の法則によって、投げられた地点に返されます。」

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