神様に乾いてる人への課題
下記の1節をよく読んで、よく考え、黙想して、あなたも意見を言ってください。 ありがとうございました。 神様が限りなく祝福するように。 わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。彼らは賢く、巧みに導く。エレミヤ書/ 03章 15節
幸せを見つける場所
下記の1節をよく読んで、よく考え、黙想して、あなたも意見を言ってください。 ありがとうございました。 神様が限りなく祝福するように。 わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。彼らは賢く、巧みに導く。エレミヤ書/ 03章 15節
悪魔と心(感情)の共通点は何か? 二つとも悪の物で私達を騙そうとします。 人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。 エレミヤ書/ 17章 09節 私達の肉の欲望は心(感情)から来ると使徒パウロは言います。 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。 ガラテヤの信徒への手紙/ 05章19節〜 21節 したがって、心(感情)と肉の欲望は同じ仲間です。 肉の業と心は同じものです。 肉から生まれた人は、心から生まれたとも言えます。 心から生まれた人は、肉から生まれた人と同じく、感情や心情から生まれています。 こういうクリスチャンは牧師が感情の入ったメッセージが好きです。 牧師の愛撫が好きなクリスチャン。 目立って、褒められる、認められる、賛美されるのが好きなクリスチャン。 こいう風な事が起きなかったら、あの感情で熱かった心は、深く悲しんで、信仰まで手放します。 肉から生まれた人は完全に感情的な人です。 教会に中では、良い気分ですが、教会の外では、完全に冷たい人です。 何かを感じるか、何も感じないか、という風に生きている為、自分に勝つ事もできなくて、当然、この世にも勝てません。 こういうクリスチャンは心の信仰に騙されました。このクリスチャンは聖書が自分を導いているのではなく、感情に導かれていると時間は、少しずつその虚しさを見せて行きます。 あなたの信仰は心の中で生まれて、感情で覆われています。そこで、この信仰は生まれて、成長します。 そのクリスチャンの信仰は完全な感情の塊です。感情的なアドバイス、感情的な音楽、感情的な集会、感情的な賛美など、その信仰は泡見たいにすぐ消えて、苦しみや苦難や試練に直面できません(私達の信仰を強くしてくれる状況の事)、それは神様の言葉に従う覚悟がないからです。 この感情的な信仰は、他人や自分の宗派を守りますが、自分の信念を守る為に、剣(覚悟)を握る勇気はありません。 こういう、臆病者は基本は何でも受け入れます。悪と戦わない為に、同盟までします。しかし、戦う事は絶対にしません。 心の信仰は化粧品と同じです。戦い(問題)の熱で溶け、戦いの笛(問題が来た時)を聞いた時、耳を塞いで、戦いから逃げます。 どうやって、神様の霊はこういった人に頼りますか? 意識があってもなくても、宗教(感情的)の人はこんなものです。地獄と共に働いています。…
おはようございます。クリスチアネさん。 私はマセド監督のアベルの供え物についてのブログを読んで、「初子の羊」と言う言葉が私の頭から離れませんでした。アベルは神様に初子の羊だけを供えたのに、何故、神様はあれだけ喜んだのか知りたくて、私は「初子の羊の価値」について調べて、アベルがやった同じ供え物をやりたいと思いました。それで、ナザレ(ブラジルの街)にある教会に父親が羊飼いという家族がいて、私は初子の価値を知る為に、父親の所まで行って、その父親に聞いて。彼はこれを言いました。 初子の羊は子羊を産んで、乳を与えて、世話をして、この繰り返しで群れを作って、群れの先頭に立つ役割を持っています。羊の群れは初子の羊に付いていきますから、羊飼いが初子の羊をよく飼ていれば、初子の羊は羊飼いに付いて来て、群れは先頭に立ている、初子の羊に付いて行きます。 もし、群れの子羊をその供え物として供えようとしたら、まだ、肉が付いていない、羊脂は少ない、毛羊はあまりありません。だから、供え物には向いていません。 しかし、初子の羊は違います!先頭に立っている初子の羊を群れから取り除けば、群れは行き場をなくします。初子がいなくなれば群れは散ります。しかも、初子の羊は肉がたくさん付いていて、羊脂もたくさんあり、毛羊もたくさんあり、乳もたくさんあり、子羊をたくさん産んで、群れを成長させる事もできます。 すごい話ですよね? 愛情を持って伝えました。 ジョシさん
だれも、何も持たずにわたしの前に出てはならない。出エジプト/23章15節(新改訳聖書) 何も持たずにわたしの前に出てはならない。 出エジプト/23章15節(新共同訳聖書) だれも、むなし手でわたしの前に出てはならない。 出エジプト記/ 23章 15節(口語訳聖書) この三つの節はそれぞれ少し違いますが、伝えたい言葉は一つだけです。「誰も神様の前に手ぶらで来ない」と言う神様の命令です。 いと高き神様は霊なのに、祭壇(神様を表す)に近づく者は自分の手に必ず供え物を供えるように何故求めるのか? 説明するのは簡単ですが、理解するのは難しいです・・・ 賢く、考える信仰を使われなければ、理解し難いです。 神様が人間に近づく為に作った道は、昔の人々が供え物を供えていたように、神様もこの世の為に聖なる供え物(イエス様の犠牲)をしました。(ヨハネによる福音書3章16節) 人間が罪を犯してから、人間は不純で不義な生き物になりました。どうやって聖なる者(神様)が自分が創造した物の中で一番不純な人間が神様と関係を持つのか?不可能です。だが、聖なる子イエスキリストの供え物によって、ある道が作られ、聖なる方が不純な者に近づけられるようになりました。 アブラハムの神様、イサクの神様、イスラエルの神様は私達が手に供え物を供えるように頼むのは私達が神様がこの世の為に供えた物(イエスキリスト)を忘れない為に意思付けています。 神様は私達に近づく為に供え物を捧げました。そして、私達が神様の前に手ぶらで現れても良いのでしょうか? 私達が神様をお祈りで求めた時、イエス様の御名は私達の胸に抱いてあり、イエス様の供え物を表す、私達の供え物を手にとり、自分達の唇でイエス様の名前を告白します。 イエス様が住んでいない心の持ち主の手は空となります。
世界で唯一、結婚式を祝う場所は祭壇です。 たとえ祭壇がシンプルなものであったとしても、正式に新郎新婦の完全な絆を築く為に必要とされています。 なぜなら、祭壇は結婚を決める場所だからです。 そして、聖別、受け入れられる事、永遠の誓いを保証しているからです。 祭壇が供え物を聖別するとイエス様は教えました。 多くの結婚が失敗する理由は一つ、カインの捧げものと同じように、新郎新婦は祭壇で自分の人生を委ね方は神様が受け入れない「供え物」だったからなのです。 しかし、新郎新婦の誓いの言葉が行動に移された時、祭壇は新郎新婦を受け入れ、彼らを聖別します。 その時、結婚は生涯続くものとなります 確実に結婚生活の運命は全て、二人が祭壇で行った誓いに従う姿勢で決まります。 神様の御霊は、その供え物(新郎新婦)が誓いの言葉を守るかどうかを評価します。 このようにして神様は、捧げものを受け、結婚を聖別するかを判断します。 また、魂の救いに関しても同じような事が言えます。 多くの人は後悔をして祭壇で涙を流しますが、 祭壇は後悔という感情を受け入れません。 祭壇は本当に悔い改めている供え物(人)だけを受け入れます。 アベルと同じ完璧な供え物を供えれば、祭壇は築きなおされ、犠牲は受け入れられるものとなります。 つまり、人生はあなたが祭壇で何を供えたかによるという事になります。
日常的に多くのキリスト教の教会でカインとアベルの話のような事が繰り広げられています。 毎日、良いクリスチャンであれ、悪いクリスチャンであれ、それぞれの供え物を供えています。 ほとんどの人が祭壇の目の前に自分の努力の実を供えているなか、ごくわずかな人数が祭壇の上に自分の初物を捧げているのです。 一見してカインの供え物は自発的な物であった為、価値のあるものだと思えます。神様は決してカインに何も求めていませんでした。カイン自ら収穫時となった頃に、生った実を主に供えました。 カインはおそらく、自分の盛んな収穫は神様の奇跡のおかげであると思い、感謝の気持ちを示そうとしたのでしょう。 侮辱的な供え物、 軽蔑的な供え物、快く行われない供え物、愚痴を言いながらの供え物、汚れた供え物、喜ばしい供え物、どんな供え物も供える者の心の中にあるものを映し出しています。 供え物というのは、神様の御前で供える者の姿を映し出す鮮明な写真です。 もしそれが汚れた供え物(傷ついた心)であれば、イエス様は次のように教えています。 「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」マタイによる福音書/5章23〜24節 この事を知っているのはごくわずかな人だけです。 神様はアベルがどのような実を供え、どのような室であったかでさえ述べていません。神様は単に、その供え物を供えた者(アベル)の心が原因で拒否しました。 その供え物は祭壇の前に留まり、カインの一生と同じように腐っていきました。 原因は全てカインの中に悪い物があったからです。 『正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。』(創世記4章7節) つまり、カインがもし正しい事をしていれば、認められていたはずです。 『もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。』(創世記4章7節)と主は言われました。 カインとは違い、アベルは羊飼いとして、群れの一番脂肪のある初子の羊を選びました。決して代理でもなく、いい加減に選ぶ事をしませんでした。 アベルは出来るだけ自分の信仰、愛、感謝、尊敬を表す供え物を自分の群れから選び抜きました。 自分の人生を委ね神様に委ねていた事をしっかりと表すものを選びました。 彼は本当に主を喜ばせたかったのです。 このような供え物をする行為で神様御自身がアベルは正しい者であると証明したのは不思議ではありません。 『信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。』ヘブライ人への手紙/11章4節