Eis-me aqui, Senhor! – 国内初出版
🛑国内で初出版: マセド監督牧師の“Eis-me aqui, Senhor! (主よ、私はここにおります!) ” 公表は、全国で同時に行われ、浜松市内にある本部、@universaljapan では、本国での福音活動の代表者、ファビオ牧師と全伝道師の活動を率いる、伊藤牧師が共にご参加されました。 言葉の壁を乗り越え、参加された日本人の方々も、主につかえる志を高めるこの本を入手されました。
幸せを見つける場所
🛑国内で初出版: マセド監督牧師の“Eis-me aqui, Senhor! (主よ、私はここにおります!) ” 公表は、全国で同時に行われ、浜松市内にある本部、@universaljapan では、本国での福音活動の代表者、ファビオ牧師と全伝道師の活動を率いる、伊藤牧師が共にご参加されました。 言葉の壁を乗り越え、参加された日本人の方々も、主につかえる志を高めるこの本を入手されました。
神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる。いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。」詩編36:7-9 主は慈しみ深いお方であるからこそ、義を求める人々を呼び集め、選びます。 義を求めるこの人々は、最も重要な、神様の存在を求めます。だからこそ主の家(教会)で求め、できるだけ主のもとにいるために、自らの人生や夢を犠牲にします。落ち込んだ魂を目覚めさせ、悪から解放する知恵に溢れる言葉で満たされます。祭壇で全てを委ねたとき、真の命と光を得ます。
人が生まれた途端、医者はへその緒を切るものです。つまり、人は他の人とくっついて生きるために創られていないということです。神様は人をユニークにするためにして創造されました。 それでも中には人の反応を窺って生きていく者もいます。必要以上に人からの評価を気にしてしまいます。 神様は決して血族関係で人を天国には入れない つまり、神様の御前に立ったとき、私たちの行動一つ一つが意味を成すということです。私たちには自分たちのとった行動の責任があるのです。 自分の行動の責任は自分でしか取れない。神様はそうしてきています。それもまた正しいのです。もし、自分が赤の他人の行動の責任を取らなければいけないような状況を想像してみてください。 また、他人の考えを探って、どう思っているのか知ろうとしない方がいいです。それは、本来であれば、自分の為にやらなければいけないことのために使わなければいけないエネルギーまでを消耗してしまう行為です。 聖書に出てくるアドバイス 一つ目の詩篇で神様に従っていない人の意見を気にしてはいけないことが教えられています:「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。」詩編1:1 これは、信仰を使って生きていない人に相談したり、何らかの“ 輪 ”に認められたいと思う人の身に起きることです。 もちろん、この世で(意識的に)罪を犯し続けて生きる人を完璧に避けて生きることはできないとしても、好んでそういった人に囲まれて生活する人もいます。神様を求めはするが、世のことも気になっています。 すなわち、聖書は私たちに災いの元となることや仲たがいを生み出す者と関わってはいけないと教えてくれます。 土台・根元からしっかりと神様に根付いていれば、外や周りの問題を気にする必要はあるのでしょうか?強風であろうが、暑かろうが関係ありません。どこに根付いていて、誰に支えられているのかをしっかりと知っていれば、他人を気にしません。
ここ数日、監督牧師が言っている、感情的な信仰が人を無謀にして、“ 神様とのタッグ ”を拒んで、物や人、牧師を選んでしまうことについて考えていました。 これもパウロがコリントの信徒への手紙を2通書いた理由です。彼らは霊的に成長することなく、“ 堅い食物 ”、つまり、霊的な世界の新しいこと・素晴らしいことを与えようとしてもパウロは仕方なく、彼らに“ 乳を飲ませる ”しかありませんでした。 1通目の手紙を宛てる主な理由の1つも、コリントの信徒が抱いていたパウロかアポロとの“ タッグ ”のどちらに付くかの議論でした。下記の節句ではっきりしています。 「あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。」コリントの信徒への第一の手紙3:2-6
1月30日、全国のユニバーサルキリスト教会で集会に参加される方々全員に無料で配布される“ ヘルモン山で聖別された油 ”の特別な集会が行われます。 ユニバーサルキリスト教会で年に一度、私たちは油を聖別して、無料で配布しています。あなたの家族に聖別された油がなくてはいけません。いつどの状況で奇跡が必要になるかはわかりません。なので、油が家にあれば、途方に暮れた時、闇を照らす光となります。 時に人にできることが限られてしまうこともあります。そういう時こそ信仰を使わないといけません。 また、この聖なる油を“ ごく普通 ”のこととして考えてはいけません。神様にしかできない時こそ使われるものです。 だからこそ主イエスでも弟子に聖別された油を少量常備し、人を祝福し、悪霊を祓うように言われました。 「多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。」マルコ書6:13 つまり、私たちは主イエスご自身の言い伝えに従っているということです。 参加するには? ぜひこの機に最寄りのユニバーサルキリスト教会までお越し、その油について詳しいお話をしましょう。 本部教会: 浜松市中区北寺島町211-19
「あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。」マタイ書 5:25 主はこの節句で、そばにいる(一緒に行く)時に “ 早く ” 仲直りをするように言っています。“ 裁判官、下役と獄 ”に引き渡されるからこそ恨むことの重大さがわかります。 それでもなお、多くの人はなぜ、許さないことが心身ともに悪影響を与えると知りながらも過ちを繰り返していくのでしょうか? 赦しを与えない人は自分の言い分を手放したくないことが原因で“ 自分を愛する者 ”となります。こういった人は相手を赦せる理由があっても、憎んで、傷をえぐり続ける理由を重視します。 本当は、憎むと決めた人は、御言葉を知っているなら、自分の権利と意見を御言葉より優先しているのです。 だからこそ主イエスは、主の赦しは、私たちが人に与える赦しによるのだと言っています。こうでもしないと人は罪の言い訳をして開き直ってしまいます。