Categoria: マセド監督牧師Blog

主(ぬし)の区別

「そこで預言者シマヤは、レハベアムおよびシシャクのゆえに、エルサレムに集まったユダのつかさたちのもとにきて言った、「主はこう仰せられる、『あなたがたはわたしを捨てたので、わたしもあなたがたを捨ててシシャクにわたした』と」。そこでイスラエルのつかさたち、および王はへりくだって、「主は正しい」と言った。主は彼らのへりくだるのを見られたので、主の言葉がシマヤにのぞんで言った、「彼らがへりくだったから、わたしは彼らを滅ぼさないで、間もなく救を施す。わたしはシシャクの手によって、怒りをエルサレムに注ぐことをしない。しかし彼らはシシャクのしもべになる。これは彼らがわたしに仕えることと、国々の王たちに仕えることとの相違を知るためである」。歴代志下 12.5-8 再びイスラエルは信頼せず、神様の御心に従わなかった。 だからこそ人々はイスラエルを侵略して、全てを奪い取ったエジプトの王、シシャクの手に渡されました。 イスラエルの民は預言者の助言で神様の御前でひれ伏し、悔い改めたにもかかわらず、自分たちの過ちの結果から免れることはありませんでした。 神様は民を赦し、助けを保証しましたが、この世の国々と王(人)につかえることと神様(主)に使える違いを理解させる為にしばらくの間シシャク王につかえさせました! 聖人でも悪人でも、忠実でも裏切り者でも、全員神様につかえることと他の人や何かにつかえる違い(区別)を見ることになります!

唯一の目標

「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。」歴代誌下16:9 つまり、窃盗・うそ・浮気・偶像崇拝をしていなくても関係ない。開き直って、独自の正義だと言い訳する余地はありません。 それは、正しい生き方をしていると思える人でも、こころの中に主イエスのいるべき場所に人や物があったら、聖霊様を受けられないということです。 こころを完全に主で満たされることが賢い信仰の条件です。そうともなれば、私たちの中で主イエスのいるべき場所を他の人や物で埋まらないようにしないといけません! 完全に主イエスだけで満たされていないといけません!聖霊様は一番の目標であれば与えられるわけではありません。唯一の目標であれば話は変わります! 聖霊様を受けるまでは、主と他のことで迷っていてはいけません!

こころの望むもの

唯一その偉大な変化ができる聖霊様、神様の御言葉を求めない人と同じように、ソロモン王は生涯を使って、こころに導かれながら虚しさを埋めようとしたので挫折は大きく、確実なものでした。 「わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。」コヘレトの言葉2:3 彼はこころの中で肉体を刺激するために酒に溺れることを決めた。 「金銀を蓄え、国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ、人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。」コヘレトの言葉2:8 ここでは更に富を次々に貯めてみるもうまくいきませんでした。 「目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ、どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。」コヘレトの言葉2:10 そして、ここでは心の思うままに生きてみたものの、騙されてしまいます。 「しかし、わたしは顧みたこの手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。」コヘレトの言葉2:11 最終的には、神様の御霊を金銀や王冠よりも重要で大切にしていた父ダビデとは裏腹に、この世の全てが空しく、風を追おうようなものだと分かった。 「わたしの罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」詩篇51:11,12 ダビデが過ちを犯した時、地位を失うのを恐れず、御霊を失うことを恐れました。そのため、ダビデは赦され、主のこころに適う人とされました。 「…わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。」使徒行伝13:22 この話で何が学べるかというと、救いは富・地位・名誉・金には無く、正直に全てをゆだね、自分のちっぽけさを認め謙虚に助けを求める為に請うことでさまよう者を救えるのは、主イエスだけだと認めることにあります。 神様が祝福しますように!

正しい者は信仰によって生きる

宗教や儀式、人に基づいていない、神様の御言葉に基づく超自然的な信仰以外この世で罪びとを救えるものはありません。 聖書でパウロはこう言っています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エペソ人への手紙2章8節) つまり、恵は天から来るということです。恵は与えられるに相応しくない私たちに神様が与えてくださった御恩(賜物)です。そして、救いを得るには信仰を使わないといけません。 では、悪魔はどのようなことをしているのでしょうか?悪魔は信仰の力に影響をして(効力を)下げようとします。例えば、信仰によって生きる方法は難しいことだと知っているので、悪魔は聖書から言葉を都合よく切り取って、人が“教義”を言い訳にして自分の罪を正当化するように仕向けます。また、信仰を無効にできる疑問を投げかけたりもします。 「賢い信仰を使う」とは、教会に通ったり、集会に参加したりするだけではないということを理解する必要があります。信仰は、24時間犠牲をし続けるということ、毎日自我・肉欲・望み・夢を手放し、信仰によって生きるということです。 信仰を清く保つには罪から遠ざかり、悔い改め、信仰を再び使い始めないといけません。信仰によって“生きる”とは、“正しく生きる”ことです。神様がおっしゃった通りにしないといけません。 「わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」(へブル人への手紙/10章38節)。

悪魔の計略

監督こんにちは! 突然すみません。ゴンサルベス監督牧師と一緒にいた番組を見ていましたが、神様が僕に最近読んだ言葉を思い出させました。 預言者に言葉が足りなくなってはいけない 「彼らは言う。「我々はエレミヤに対して計略をめぐらそう。祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい。」主よ、わたしに耳を傾けわたしと争う者の声を聞いてください。」エレミヤ書18章18,19節 悪魔の計略はその民の人々がエレミヤに対する見かたを変え、悪口や文句を言わせ、話を聞かせない事でした。 なぜなら悪魔は、神様がエレミヤの見方だったからこそ彼の言うことは全て神様御自身の権威が込められ、聞く人は解放・癒し・繁栄・家族の絆を受け、何よりも救われると知っていたからです。 しかし、彼らがエレミヤを悪い目で見てしまったら全員救われることはありません。 アンゴラの教会とゴンサルベス監督の身に同じことが起きています。多くの人が監督を「舌をもって」攻撃し、監督の言う事に耳を傾けないよう悪魔に言いくるめられてしまっています… しかしエレミヤが神様を信じたのと同じように、教会も信じているので勝利します! 再び勝利をします! 全てうまくいきます! 神様が監督とご家族の方々を祝福しますように。 ロドルフォ監督牧師の手紙より

十分の一が盗まれた!

「人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながらどのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と献納物においてである。あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。」マラキ書3章8,9節 人が十分の一と捧げものを祭壇に備えたとき、その人の人生にあった呪いが全て無効になります。成長を止めていた、もしくは妨げていたのは大体、病気・不義・機会を閉ざされていたり、説明のしようがない出費などがあります。 まるで祭壇がその人の人生そのものを受け、神様の御言葉に書かれていることが果たされるのを保証するようなものです。 なので、教会の責任者や他の人が祭壇で捧げられたものに手を出せば、その人は、捧げものをした人が従うことで解放された全ての呪いを逆に自分の人生に持ち込んでしまいます。つまり、十分の一や捧げものをした人は祝福されますが、それを奪う人は呪いを招き入れてしまうということです。 たとえ、お金が必要だと言う人に送ったとしても、将来を保証するために使ったのだと言ったとしても、その人が保証しているのは呪いだけです。 ゲハジに何が起きたのか列王記5章20-22節で読んでみて下さい。 私たちは他人の話を完全に知ることは無いので干渉してはいけません。他人に神様の御業に対する憤りや反抗を抱いているのだと言われたら注意して下さい。いくらもっともらしい話であったとしても、呪いがきっかけかもしれません。 それぞれがそれぞれの話だけを気にしていればいいんです!